後編 釈迦の教えのpractice

後編 第1章 「いま・ここ・私」

1.地水火風
仏教学者は、地水火風が、万物を構成する四つの要素であると
いいます。この説に従えば、私の身体は脳を含め、地水火風の
四要素で構成されていることになります。そのように私が申せ
ば、そんなことはない、私の身体は、細胞でできている、分子
でできている、原子でできている、素粒子でできている、と中
学生に笑われます。

私の身体は脳を含め、細胞、分子、原子、素粒子でできていま
す。
私の身体は、極めて短時間に、生滅 (arise/cease) 変化してい
ます。

それらは、自然科学の因果律、法 (dhamma/dharma) の通り
に生滅変化しています。

僧は祈祷や読経で、法 (dhamma/dharma) を変更できると説
きますが、それは不可能です。

2.生老病死
また、仏教学者は、生老病死が、万物の苦の根源であるといい
ます。
私は、生老病死を、次のように考えます。

「生」:私は過去のある日に誕生しました。私は私の生
(誕生)を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、
私の生(誕生)を観察することはできません。記憶もありませ
んから、私は、私の生(誕生)について、一語も語ることはで
きません。他の人はあのように生まれたと知っていますから、
私もあのように生まれたと思っています。

「死」:私は私の死を観察したいのですが、「いま・ここ」か
ら、私は、私の死を観察することはできません。記憶もあり得
ませんから、私は、私の死について、一語も語ることはできま
せん。他の人はあのように死んだと知っていますから、私もあ
のように死ぬと思っています。

私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死を観察できませ
ん。私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死について、
何も知ることは出来ません。それ故、私は生老病死から、生
と死を削除しました。

「老」:老を成長と読みます。私という単細胞が発生した時か
ら、細胞が増殖を止めるその時までが、私の一生です。私は一
生の間、生滅(arise/cease) 変化しながら、生きています。

「病」:成長の過程で病気をします。「老」を観察するとき、
「病」も観察できますから、「病」を特に観察しません。私は
生老病死から、「病」も削除しました。

観察するのは、「老」だけです。「老」を成長している私、生
きている私と読みます。

物事を知るには、先ず、観察します。科学はそうです。
私が私を知るには、私が私を自己観察する要があります。

こんなことを考えていました時、私は、素晴らしいことに気づ
きました。

3.〔いま・ここ・私〕〔私は、いま、ここに、生きている〕

私は、現在に生きています。私は、過去にも未来にも生きてい
ません。
私は、ここに生きています。私は、ここ以外のところに生きて
いません。

私は、「いま・ここ」「いま・ここ」と、「いま・ここ、に生
き続け」、ある日、ある時、ある所で、死にます。

数日後、偶然に、私は、左右両手の五本の指先を合わせま
した。掌は合わせません。

両手の親指、人指し指、中指、薬指、小指に、心拍、ドキン、
ドキンを感じました。
私は生きています。私は生きています。私は驚きました。
私は、生まれて始めて、『私は生きている。私は生きている』
と実感しました。

いまでも、その時の経験は、新鮮です。
ドキン、ドキン、ドキン、dokin, dokin, dokin と、心拍を感じ
ます。

4.〔私は私を自己観察して、『私は私を発見しました』〕

私は、私を観ています。私は、私を識っています。

私は、その後今日まで、心拍、ドキン、ドキンを聴き続けてい
ます。
ドキン、ドキンを聴いていますと、私は静かになってきます。
ゆったりしてきます。
念 (sati) があると、automatically に、定 (samadhi) が生じま
す。
私は、このpracticeを、念 (sati)→定 (samadhi) の practice
と名づけました。私の独創です。

     

いよいよ、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、
釈迦の教えの究極/四つの真理を理解すべく、八正道の prac -
tice を始めましょう。


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